この4月、慶應義塾大学に二つの意味で異例の臨床系教授が誕生した。この3月まで、北海道大学呼吸器内科准教授を務めていた、別役智子氏だ。慶應大で女性の臨床教授は初めて。また、慶應大出身者の教授が多い中で、北海道大学出身、その後も北大に勤務し、慶應大には今回の教授就任を機に初めて所属する点でも異例と言えよう。
「慢性の呼吸器疾患の難しさ、そして患者さんの願いを叶えることができないもどかしさを日々感じている」と語る別役氏は、「呼吸器疾患の基礎と臨床の両輪で進め、良き臨床医、研究者を育てていきたい」との抱負を語る。
――まず先生のご略歴をお教えください。
1989年3月に北海道大学を卒業し、第一内科に入局、北大やその関連病院で研修をしています。最初から呼吸器内科を専門にしていました。その後、1996年から2000年までの4年間、米国ミズーリ州セントルイスのワシントン大学に留学しています。帰国後は北大に戻り、第一内科の助手、講師、2008年4月には准教授になりました。
――留学先ではどんな仕事をされていたのでしょうか。
留学前は、仕事のほぼ100%は臨床でしたが、留学先では基礎研究に従事しました。マトリックスメタロプロテアーゼ(MMP)やCOPDの病態などの研究です。4年間の留学期間はやや長い方かもしれませんが、このまま米国で仕事を続けようかとも考えてくらいです。
――その後は、研究と臨床の両輪で。
多くの先生方もそうだと思いますが、平日の日中は診療し、夜や週末に研究する日々でした。平日でも時間が空けば、論文を書いたりする。いつも患者さんのことを考えている一方で、「あの研究はどのように進めようか」などと常に思案しています。
――先生は、呼吸器疾患でも、COPDや肺気腫を専門にしています。これらの患者さんの臨床上、心がけていることは何でしょうか。
日々の臨床では、慢性疾患の難しさ、そして患者さんの願いを叶えることができないもどかしさを感じています。
慢性呼吸器疾患の患者さんの場合、10年以上のお付き合いになることも少なくありません。患者さんの中には、「20年以上も前に禁煙したのに、なぜCOPDがよくならないのか」、「間質性肺炎の原因となった薬の服用をやめているのに、進行していくのか」などと嘆く方もおられます。慢性呼吸器疾患の場合、徐々に進行したり、突然何らかのきっかけで急性増悪することがあります。しかし、そのきっかけが分からない。これは私のリサーチのテーマでもあります。
患者さんとしては、元の体に戻りたいために、私を信頼して受診してくださるのに、それができない。さらに患者さんが高齢化すると、合併症も生じてくる。この意味で、慢性呼吸器疾患は、「Aging医学」とも言えます。
最近では長年診ている患者さんが、がんになるケースも増えています。COPDや間質性肺炎などがベースにあると、肺がんのリスクが高まります。せっかくCOPDをコントロールしていたのに、がんが発見される。しかも、これらの疾患があると、手術、放射線療法などが難しく、新薬も使えないことが多いなど、治療上、様々な制約があります。こうした状況は、肺がんを早期発見した場合でも、患者さんにとっては非常にショックなことです。
私はオンコロジストではありませんが、2010年3月から、またワシントン大学のDepartment of Developmental Biologyに留学したのは、これまで慢性疾患を診ていた立場から、がんについて研究するのが目的でした。肺がんの臨床のほか、臨床研究の手法を学び、肺がんのモデルマウスを使った研究などもしていました。
――2010年3月に留学した時点では、北大に戻る予定だったのでしょうか。
はい。その後、慶應大の教授就任のお話をいただきました。
――お話を聞いた時、どう受け止められたのでしょうか。
正直、驚き、北大の所属医局の教授に相談しました。そうしたら、「ありがたいお話」だと。その後、履歴書を提出し、今後の展望などをプレゼンテーションするために昨年6月に一時帰国しました。その際、質疑応答もしています。
――どんな質問を受けたのでしょうか。
幾つか質問されましたが、例えば、「初の女性の臨床教授になることに、覚悟はありますか」、「不安は」などです。でも私自身、様々なところに行き、友人を作ったり、違う世界に入り、仕事をすることが苦手ではありません。だから迷いはありませんでした。最終的に今年2月末の教授会で決定しました。
――先生は長年、北大に所属していたわけですが、慶應大のことをどのように見ておられたのでしょうか。
私たちは、他施設の先生方と学会などで知り合いになっても、その大学の仕組み、制度、教育方針などについては、意外に知りません。ですから、慶應大のことについても、一般の方と同じくらいのイメージ、知識しかなく、あまり詳しくは知りませんでした。
――例えば、どんなイメージでしょうか。
そうですね。例えば、いい意味でも、またそうでない意味でも、慶應大の教授は、慶應大を出身された方が多い。
――それはどのような意味でしょうか。
北大には、様々な大学の出身者がいました。他大学から来た先生がきっかけとなり、新たな交流が生まれたりしていました。また、北大に来て、新しいことを始める人も多い。だから、今度は、私がこうした役割を慶應大で果たせれば、と考えています。
また国立大学と私立大学の違いもあります。教授選考過程で感じたのですが、先生方の慶応大に対する愛情、思い入れは非常に強い。自分たちの大学をさらに発展させていこうという姿勢を感じ、非常にすばらしいことだと感じました。
――今後の抱負をお聞かせください。
教室のスタッフには、呼吸器疾患の基礎と臨床、どちらかに偏ることなく、両輪で進めていきたいとお話しました。例えば、一人ひとりの医師の日々の仕事で、あるいはその医師のライフサイクルの中で、さらには当教室の中で、両者をバランスよくやっていきたいということです。こうした姿勢で取り組むのは、私自身がこれまでこのようにやってきたからです。私は、自分がやってきたこと以外は、スタッフに指示することはできない人間です。私自身が身に付けたことを後進に伝えていくのが私の役割。
また私は、“箱を作りたい”と考えているわけはありません。外から見て立派な箱でも、仕方がありません。そうではなく、人が育つ環境を作り、ここから優秀な研究者、臨床医が育ってほしい。スタッフには、成長し、充実した日々を送ってもらいたいと考えています。
もっとも、ここに来てまだ約2週間(インタビューは4月19日に実施)。私にとってすべてが新しいことですが、スタッフにとっても同様でしょう。私の前任の教授は、病気療養を経て、約1年半前にご逝去されています。教授不在の期間が続き、いろいろと不安に思っているスタッフもいると思います。お互いに心を開いて話し合い、私は何とかいい形でリーダーシップを発揮し、皆がいい仕事ができる環境を作っていきたいと考えています。
先ほどもお話しましたが、私は、「背中を見せて」、育てるタイプ。知り合いのドクターは、私は自分自身に厳しいタイプだと思われているようです。でも先ほどもお話しましたが、自分がやらないこと、手を抜いていることを、若いドクターに押し付けることはできません。私が研究しないことを、研究者として強要することもできません。とはいえ、人をいかに育てるかは永遠の課題。私のやり方が正しかったのかどうかは、定年を迎えた時に振り返ってみて評価したいと考えています。
初の女性臨床教授というのも確かに驚きですが、それ以上に「慶應が慶應卒以外の医師を教授にした」というほうが驚きです。
結構閉鎖的な大学だと思ってたんですけど、ここまでするというのは。
「慶應の卒業生だけを優先させることが自大学の繁栄に繋がらない」ということをが分かったのでしょうか。より優秀な人材をどんどん吸収していかなければ、叶いっこないですからねぇ。無駄な学歴主義やプライドは捨て置いて、患者のため、医学の発展のために進んでいただきたい。
この教授を全力で応援します。陰湿なイジメみたいのが起こらないことを祈ります。まぁさすがに慶應といえど大人でしょうから、そのあたりは。
母の癌の件で主治医とセカンドオピニオンの意見が真っ向から分かれ、悩んでいる中、会社の健保を通じて先生にお目にかかる事が出来ました。
診断資料等もない中、真剣に話を聞いて頂き、時間を延長して色々アドバイスしてを頂き、大変感謝しております。患者に対して全力で向き合って下さる姿勢を強く感じました。先生のお言葉の中で「あきらめてはいけない!!。色々な選択肢は、まだある。」強く心に残りました。本当にありがとうございました。
先生の慶應大学でのますますのご活躍を応援しております。