東日本大震災の発生から、まもなく1か月がたとうとしている。多くの医療機関がダメージを受けた被災地。地域の医療体制が震災前のレベルにまで戻るには、相当の時間が必要だ。発災直後に東京DMAT(災害派遣医療チーム)として宮城県気仙沼市で活動し、さらに3月31日からは岩手県立宮古病院で医療支援に当たっている帝京大医学部の佐々木勝教医師(救急医学講座)は、「長期にわたる医療支援の戦力」として、研修医ら若手医師の派遣を訴えている。
―被災直後の気仙沼市では、どのような活動をされたのでしょうか。
発生翌日の3月12日から14日まで、医療が必要な避難者のトリアージと搬送を主に行いました。東京DMATは、東京消防庁の救助隊と一緒に動きますが、まだ街のあちこちが燃えていて、いわゆる「がれきの下の医療」ができる状態ではありませんでした。生死がはっきり分かれてしまう津波という災害特性からも、そうした活動の場は多くなかったと思います。
―現地の様子は。
これまで見たこともない光景が360度、広がっていました。物の焼ける匂いがして、「東京大空襲の後は、こんなふうだったんだろうか」とさえ思いました。安易にカメラを向けたりしてはいけないような気がして、1枚も写真を撮っていません。
孤立していた鹿折中学校には、400-500人の住民が避難していました。もともと高齢者の多い地域ですが、近くの老人ホームの入所者も集まっていて、寝たきりに近い人もいました。やはり糖尿病の既往がある人が多く、意識障害を来していました。胃ろうの経管栄養を投与できず、衰弱も目立ちました。若い人も、濡れたままの衣服を着ていたために低体温症を起こしていました。津波による下肢の外傷が多かったのも特徴的です。中には、歩けないほど足が腫れている人もいました。何とか機能していた気仙沼市立病院に全部で45人ほどを搬送しました。
―これまでの活動との違いなどは感じましたか。
これほどの大規模な災害での活動は初めてでしたが、これまで行ってきたDMAT訓練などのシミュレーションとの一番の違いは、被災地域がとにかく広いこと。一般的な訓練では、これほどの想定はありません。特に困ったのは、通信手段がないことです。都市型の災害・事故で使うようなトランシーバーは、役に立ちません。衛星携帯電話も台数が限られ、十分ではありませんでした。また、東京のような都市部なら、主要病院が幾つか残るでしょうが、今回は、後方病院が被災して機能しませんでした。気仙沼では、奇跡的に市立病院が残り、医療が必要な被災者を搬送できましたが、そこから後方に送れないので、数日後には次々に運ばれて来る患者や薬をもらいに来る被災者であふれてしまったようです。
―「こころのケア」の重要性も次第に指摘されてきています。
市内の総合運動場でも、救出されてヘリで運ばれて来る被災者のトリアージを行いましたが、われわれの後ろでは「行方不明の家族が乗っているんじゃないか」と探しに来た人たちが、じっと待っている。それに、現地の病院のスタッフ自身も被災者です。支援に入った医療者で、帰るころにはぐったりしていた人も少なくありませんでした。肉体的な疲れもあると思いますが、やはりこうした被災地の状況に心を痛めたようです。被災した方々のこころのケアはもちろん重要で、これからそういうニーズが増えてくると思いますが、支援に入る人も含めて医療者に対するケアも大切になるでしょう。
―3月末からは、岩手県の医療支援にも加わっていらっしゃいます。
県立宮古病院で救急外来をサポートしています。帝京大の救急医と内科医、研修医でチームを組み、日本医師会のJMATとして入りました。今後もメンバーを交代しながら、数か月の支援を続ける予定です。
もともと医師不足で大変なところですが、今回の震災で近隣の病院が機能しなくなってしまい、患者さんが集中しています。1日に40-50台の救急車が来るほか、自力で歩いて来る患者さんもかなりいます。肺炎の患者さんが多く、津波に遭ったときに汚染水を飲んだことによるケースも目立つようです。緊急手術が必要な症例は、約2時間かけて盛岡市まで運んでいます。
医療支援が長期化する中、若い医師の力が必要です。専門に限らず幅広く患者を診ることができ、体力も柔軟性もある。被災地では重要な戦力になります。本人にとっても、限られた医療資源で活動することやその限界を知る貴重な経験になるはずです。機会があれば、多くの若手医師の皆さんに被災地の医療支援にぜひ参加してほしいと思います。
実際被災地で求められているのは、大学病院勤務のン十年クラスの医者よりも、フレキシブルに動けて体力的にも問題なく、かつ、総合的に診て判断することのできる医者でしょうねぇ。救急外来などで鍛えられている3〜6年目の医師がちょうどいいのでは、と思いました。