終戦直後に血液不足で命を落とした友のために―。半世紀で1千回以上、献血した人がいる。横浜市アーチェリー協会会長の若林武正さん(70)=同市磯子区岡村。年齢制限いっぱいの69歳までの献血回数は1101回。今春“引退”したが大台突破はまれだ。友人らが無念の死を遂げなければならなかった自らの体験を通じて、今の若者に「血液不足で苦しむ人に生きる喜びを分けてあげてほしい」と献血を呼び掛ける。
きっかけは幼少期に体験した友人らの死だった。若林さんは東京大空襲で東京・蒲田にあった家を失い、座間市内に疎開した。終戦後、東京に戻り小学校に入学したが、栄養失調で病気を患った友人もおり、手術で血液が必要だった。国内の血液供給体制が生活困窮者らの売血で成り立っていた時代。貧しい家族は血液を買えず、その友人は死んだ。同様に命を落とした親族もいる。
旧陸軍病院施設内で職業訓練に当たっていた若林さんの父親も何人もの傷病兵をみとった。「一番滋養があるのは血液だ」という父の言葉が若林さんの耳から離れなかった。
「おれの血を分けてあげられれば、少しは助かっただろうか」と悔やみ、献血の対象開始となる16歳の誕生日から「献血の道」に入った。都内の高校に通いながら1カ月に数回は献血所へ。大学を経て横浜学園高校(横浜市磯子区岡村)教諭となってからは3日に1回の時期もあった。
献血の回数制限が設けられてからは2週間に1回のペースになったが、同校アーチェリー部を指導する傍ら、手帳を県内用、県外用と2冊持ち歩き、全国を回った。
血液を提供するからには健康管理も怠らなかった。1日3食はすべて妻・和加子さん(67)の手料理。脂っこい食べ物は口にせず、献血数日前からは禁酒。歩くことが日課で1日2万歩を超えることもしばしばだ。
ことし5月に70歳を迎え、54年の活動を終えた。多くの患者を救ったことなどが評価され感謝状を贈られた若林さんは「さみしい思いもあるが、死んだ友人も少しは満足してくれただろうか」と腕をなでる。献血離れが叫ばれる今、若林さんは「献血は勇気がいること。自分のことは大切だけれど、他の人を思いやる気持ちも持ってもらえれば」と話している。
戦争、そして戦後を知っているからこその献血の重み。
今も血液というのは長時間保存できるようなものではなく、すべて今存在している人からいただいている大切な血液です。
こういう方が献血から引退し、若者の献血が減っていくと、ただでさえ不足気味な血液は一体どうなってしまうのでしょう。
気軽に献血に行けるような習慣をつくってほしいですね。
あと個人的に思うのは、献血側のシステムももうちょっと何とかならないかなというところ。針が太いとか、痛いとか、そういうところをもうちょっと工夫できれば若者も行きやすくなるのではないでしょうか。(今でこそそこまで痛いというわけではありませんが、やはり健康な身体に針を刺すというのは嫌な行為であることに変わりありませんし)