2006年03月27日

「君が代神経症」だってさ。

教員むしばむ『君が代神経症』

 「のどから胃にかけて太い杭(くい)を打ち込まれるような痛みが断続的に襲ってくる状態」。野田氏が、面談したある美術担当の女性教員は、心の苦しさをこう打ち明けた。

 女性教員は、教員になった理由を「感じる、考える、つくり出すという創造的な人間の活動の力を美術教育で育てたい。それは社会を再生させる鍵になる」と語った。

 しかし、そうした教育を許さない状況が生まれてきた。

  都立校教職員の君が代斉唱参加を義務づけた二〇〇三年十月の「10・23通達」が出た後、君が代斉唱で立つ(斉唱)か座る(拒否)かを考え続けた。結局、「座らない」という結論を出したが、生徒に「先生言ってることとやってることが違う」と言われたら教員としてはおしまいだ、と苦しんだ。

 教委−校長−教員−生徒との上意下達の押しつけが、卒業式にとどまらず日常的に現場を支配するのは、「教育の息の根を止めるやり方」と反発する気持ちは強い。だが、病気を抱えた両親を扶養し、職を失うわけにはいかない家庭状況もあった。起立を選んだが、それで苦しみが解消する問題ではなかった。

■生徒の不起立も教職員の「責任」

 ここ数年、都立校の卒業・入学式では、子どもたちに君が代斉唱を強制するのはおかしいと考えて、「国歌斉唱」時に不起立を選んだ教員ら三百人以上が、職務命令違反などとして処分されてきた。不起立教員には「君が代は好きだが、教育に強制はなじまない」と考える人も含まれる。思想信条や良心にまで踏み込んで、強要するのはおかしいという考えだった。

 ところが都教委は今月十三日、ある都立定時制高校卒業式で卒業生十数人の大半が君が代斉唱で起立しなかったことを受け、新たに全都立学校長あてに「適正に児童・生徒を指導することを、教職員に徹底する」よう求める通達を出した。

 「10・23通達」以後の流れからみれば、今度は生徒をすべて立たせ、歌わせようとしていると映る。ある卒業生は話す。「自分たちが歌わなければ、先生が結果責任を負わされる」

■「自ら命を絶つ」イメージ浮かぶ

 クリスチャンとして、「君主」を讃(たた)える歌を歌うことができないと考える男性教員の場合は、不起立したことで減給、異動といった不利益や、「再発防止研修」を受ける立場になった。自分の将来について、次の卒業式まで何とか持つのだろうかという不安感を持つ。一番の心配は、自分で自分の命を絶つのではないかとの思いで、「首をつっているイメージが浮かんでくる」という。

 神経症の診断を受けて薬をのみ、自分の感受性を鈍らせることで対応しているが、「自殺念慮で、手段や具体的イメージまで浮かんでくるのは極めて危険だ」と野田氏は心配する。

 音楽教員の女性は、「10・23通達」以降は「歩いていても『君が代』が聞こえてくる」ようになった。卒業式でピアノ伴奏をする音楽教員は、特に生徒に斉唱強制を促しかねない“加害者”の立場にもなりうる。

 女性教員は、音楽準備室に入り込んでくる虫(カメムシ)が「都教委に見え、見張りに来たと感じる」ような思いに襲われる。

 すでに精神疾患によって病気休職を取った男性教員の場合は、自らの教育の集大成と考えてきた卒業生の「答辞」が廃止されたことが最大のきっかけで、落ち込み、睡眠も取れなくなった。この学校で答辞が廃止されたのは、〇三年度の卒業式で、代表の在日朝鮮人生徒と日本人生徒が「日の丸・君が代の強制には納得できない」と答辞で述べたことが原因とされた。

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 まぁ正直言って彼らは君が代という歌の内容を過度に捉えすぎているんでしょうね。君が代を歌ったらどうなるというわけでもないのに。そういう意味で神経症なのでしょう。決して君が代が悪いわけではありません。

 精神科医ならこういうとき、相手の意見に同調するなどの選択を選ぶのでしょうか?精神分析の専門家ではないのでわかりませんが、ここはblogですので私の思うことを述べさせていただきます。笑

 発達の過程で子供がみていく身近な大人は、親と教師です。教師は子供の鑑となるわけで、それが子供にとっての「常識」になってしまいます。つまり教師の意見が正しいから子供はそれを忠実に守るのではなく、たとえその意見が誤りであっても子供はそれを「基準」に考えてしまうわけです。

 当然のことながら教師なんて嫌いだという人もいるでしょう。ですが中には本当に純真な子もいるのです。そういった子が妙に捻じ曲がった思想に毒されていくのを見るのは本当に忍びない。

 かくいう私も教師の教えを信じていた時期がありました。ある教師が本当に短絡的にしか天皇という存在を見れない人で、それを鵜呑みにしていたのですね。日本は悪いことしかしていないんだと、反抗期の時に親に言ったことがあります。

 しかし親は常識的人間でした。そのため私を論破し、見事に「洗脳」から解けたわけですが。今おもうと、もし親もその教師と同じだったら、私は物事を考える力すら身につかなかったかもしれません。人格障害などのようにその人の性格や考え方を決めてしまうのは発達していく期間に形成されるからです。そして、形成されて成長してしまったら元に戻らないのも、人格障害の特徴です。

 純真な子供たちからすれば「色々なことを熱心に教えてくれる先生」なのでしょう。もしくは「本当のことを教えてくれる尊い大人」と思っているのかもしれません。高校の卒業式で卒業生の大半が起立しなかったのは、本格的に危険だと思います。「20歳までに左翼に傾倒しないものは情熱が足りない、20歳を越えても左翼に傾倒しているものは知能が足りない」と揶揄されるように、若い頃は熱心に活動するのもいいでしょう。学生運動然り。しかしそれは若いころのエネルギーでやるべきことであって、本来「学生運動はハシカのようなもの」なのです。

 もう「高校生」なのですから、いつまでも教師1人の意見を鵜呑みにしていないで、自分なりに考えて出したほうがいいでしょう。そうなるために文字通り「反面教師」を利用するのもアリだと思いますよ。とにかく、危機感を持ってほしいですね。ただ教師に反発しているだけの高校生も、この機会に「考えてみる」といいんじゃないでしょうか。

 最後に。「どんな国であれ、その国の国歌と国旗には敬意を払わなければならない」と私は思います。意味は自分で「考えて」みて下さい。


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posted by さじ at 05:37 | Comment(1) | TrackBack(0) | 精神
この記事へのコメント
観察する理性に及ぶ。観察は偶然な関係の範囲内にいるわけで、省察を巡らす現実と比較すると純粋な姿を共に見つめ合い、一般性として共に現存する概念に向かい現実的な答えが出ます
Posted by みか at 2010年11月13日 21:03
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