2008年10月27日

医学ちょっといい話7「ベテラン助産師の卒業」

60年で赤ちゃん6千人、ベテラン助産師「卒業」 高松

 約60年間で6千人の赤ちゃんを取り上げたベテラン助産師が引退した。高松市多賀町3丁目の平野艶子さん(86)。戦時中は無我夢中でへその緒を切り、70年代のベビーブームには寝る間もなく妊婦の元に駆け付けた。小さな体から力いっぱいの産声が上がるたび、「命の尊さ」を実感した。引退を機に、自宅近くに子どもたちの安全と健康を祈る「お地蔵さん」を建て、毎日手を合わせている。

 1942年11月、20歳で香川県西部の三豊郡神田村(現三豊市)に保健師として赴任した。男性は次々と出征し、女性や子ども、お年寄りばかりが残っていた。赤痢などが流行し、「死」と隣り合わせの日々。村に医師はおらず、助産師の資格も持つ平野さんに妊婦の世話が回ってきた。

 初めてのお産は真夜中だった。「生まれそうだからすぐ来て」と玄関をたたかれた。無我夢中でへその緒を切った。「新しい命に感激した」

 結婚して移り住んだ高松市内を45年7月、米軍機が襲った。道のあちこちに黒こげの死体が転がっていた。「地獄だと思った。人の命が簡単に失われるのが恐ろしかった」。命を大切に守り育てなければならないと誓い、助産師として生きていこうと決意した。

 スクーターで妊婦の家を回った。56年、自宅を改装して平野助産院を開設。71〜74年ごろの第2次ベビーブームでは、寝ずに1日7人を取り上げたこともあった。

 今年2月、心臓を患って入院し、「これ以上続ければ母子に迷惑がかかる」と引退を決めた。先月末、助産院を閉じた。これまでお産にかかわったのは約6千人。3代にわたり世話した家族もあれば、5人の子どもすべてを取り上げた母親もいる。「思い出の場所を残して」「再開して」との声は根強い。

 「新しい命に触れる感動を60年も味わえて幸せだった。子どもは宝物。引退はしたけれど、地域の安全に貢献したり、子育てに悩むお母さんの相談に乗ったりしたい」



 こういう尊い人が、地域の医療を支えているんだなぁ。志をもった人が日本中に配属されれば、まだまだ日本の医療も。

 60年間お疲れ様でした。

 分娩を助け、妊産婦や新生児の保健指導をする助産師は、産科医の不足もあって再び脚光を浴びつつある。厚生労働省などによると、助産師は06年で2万7352人。ピーク時の51年(7万7560人)に比べ、大幅に減った。だが、10年前と比べると約3千人増えている。

 日本助産師会(東京都台東区)の加藤尚美専務理事は「お産における大病院志向などもあり、地域の助産所は廃業が相次ぎ、一時なり手が減った。しかし身近な相談相手として再び見直されてきている」と説明する。


 お産に興味のある看護師志望の高校生などは、助産師の資格を目指してもいいかもしれませんね。今後の需要もありますし、何より産科に特化したスペシャリストという魅力もありますし。

関連
医学処:産科医不足に続き、助産師不足が深刻に
医学処:産婦人科医不足の市で、助産師による助産院を開設
医学処:米国女性研修医が見た、日本の産婦人科現場
広告
posted by さじ at 00:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 生殖
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック