2008年08月23日

医者の現実 -医療者の立場から-

424 名前:卵の名無しさん 投稿日:2008/05/11(日) 23:28:13 ID:K8nZs+rO0
若いときの思い出

僻地の病院で毎日必死で働いていました。
月の半分位は病院に泊まっていました。
ソファーで仮眠だけして、救急外来の手伝いもやりました。
残業や超過勤務は計算したら莫大なものになるが、
そんな手当は認められることもなく、決して収入は
増えることなかったが、患者さんの為、
そして自分がこの地域の医療を支えているという思いがあり、
毎日凌いでいました。

ある日、心肺停止の患者がきて、挿管し、
レスピにつないだ症例に遭遇しました。
その日からは毎日泊り込みで、
ほとんど一睡もせずに夜間救急とこの患者さんのカバーにあたっていた

そして奇跡的に7日後に意識が戻り抜管し、やがて元気に退院した。
1ヵ月後家族が面会を求めて、やってきた。
てっきり、お礼を言いに来られたのかな、と思いましたが、違っていました。

家族:
「うちの母が退院後のどの違和感を訴えていました。
 我々も本で調べてみましたが、
 あなたが同意もなく気管にいれた管のせいで、
 のどが傷ついた可能性がありますね。
 しかるべき説明と謝罪をしていただきたい。
 当然、それなりの慰謝料や賠償についても請求します。」

病院は、手間のかかる裁判を嫌がり、和解し賠償金を支払った
苦虫をかみつぶしたような顔をした院長からは
始末書と詳細な報告書の提出を求められ小一時間、
小言を言われ続けた

その翌日、呼び出され椅子にふんぞり返ったお役人とその取り巻き連中に長時間、叱責された
当然、俺だけ、立ったままさ・・・

その時、俺の心の中で何かが吹っ切れた
今まで俺がやって事はなんだったんだろう?
消えてゆく命を救うために必死になってやってきたことがこれか?
俺は全てが虚しくなりました。

その後、何年かして、病院勤務を辞めました。
DQNを相手にするのが、もう、耐えられなくなったからです。
あの頃は自分の人生を削ってでも人を助けたい、
助けた先には笑顔と感謝があるなんて馬鹿げた事を本気で信じていたよ
ファーストキスはレモンの味だとか夢見る少女とかわらねーなw
そうそう、俺への扱いを見て、その後、何年か経て、やはり挫折したのでしょうか、何人か医局を去っていきました。
もう、同期で勤務医をしている人間は少数になっています。
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posted by さじ at 01:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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